2012年11月1日木曜日

そこに愛はあんのかい?

ブログの更新が少ないとの指摘を受けたので,今日から頑張ってたくさん更新する.いつまで続くかわからないけど.


昨日は深夜に雨の音で起きて,ヤギを外に繋ぎっぱなしだったので回収して小屋に入れに行った.

家畜を飼い始めてから雨の音に敏感になって,必ず起きてしまう.大事なヤギを風邪で死なすわけにはいかないから.やっぱし愛情を持って育てないと,おいしい肉はできないし(と信じることにしている),そもそも家畜を「殺して」肉にするという行為自体,それを愛情(=責任)を持って育てたものであるからこそ意義があると思う.ただ殺すだけなら,どこかで貰ってきた動物を殺せばいいのであって,わざわざ飼育する意味などないわけである.また,愛情をもって育てたということは,家畜を資源として無駄にしないということに繋がる.スーホが馬頭琴を作ったように,愛情を持って育てた家畜ならば,それこそ骨の髄まで,利用してやろうという気になる.そしてそれこそが,本当の動物愛護につながるのだ.だって,そんな動物を残虐な方法で殺したり,必要もないのに殺したりしないでしょう.「イルカかわいそう」「ニワトリかわいそう」より「動物を育てて食べよう」って主張するべきですよ,愛護団体の方々は.

「動物の命を奪う」という行為は,自分の命を大切に思うすべての人にとって(なんか「死にたい」とか口癖のように言っている学生がいるが,大体そんなことを他人に言うこと自体,自分の命に執着している証拠である),特別な行為であり,非常に責任の重い行為である.からして,本来的には自分が食べる肉は,自らが殺して得るべきである(これが理想).もちろん,これは非現実的なことであるから,我々はお金を払って,これを他人に代行させているのだ.だがしかし,多くの人が,肉を喰らいながら一生屠畜をせずに(さらには見もせずに!そんなことが行われていることに気づきもせずに!!!)いるのである.これは非常に不自然ではありませんか.「肉を喰らって生きること」の責任から逃亡しているのですよ.

自分が吉畜協を始めたのは,そんな机上の理論を自分の実体験し,また寮生(+周辺の人)と共有したいからであるのだけれど,残念ながらまだまだ.「動物を殺して食べること」が単なるエンターテイメントとしてしか捉えられていない節がある.そもそも屠畜という行為はいわゆる特別なこと(モンゴルや中東で家畜をつぶす日は,客人をもてなしたり神に祈ったりするための特別な行為であることを想像してもらいたい)であるから,屠畜がエンターテイメント性を持つのは当然のことであるのだが,屠畜する動物が愛情を持って育てたものであれば,そこに「感謝」が生まれる.これが重要で,「感謝(それが動物に対してにしろ神に対してにしろ)」が無くてエンターテイメントだけなら,風呂場で猫を猟奇的に解体する人と同じだよ.「いつウサギを殺すのか?」「ニワトリ喰おうよ」とか言ってくる人がいるけど,おいおい「そこに愛はあるのかい?(これ「一つ屋根の下」というドラマで,江口洋介が言ってた決め台詞ね)」.


まとめ
1,自分の喰う動物の命は,できる範囲で,責任を持って自分で奪おうよ.
2,自分が食べる動物に愛を持とう.そうすれば自動的に感謝が生まれ,しいては動物愛護,持続  可能社会の実現につながるよ.



ただ日記を書こうと思ったら,アジテーションになってしまった.
でも今の学部生とか,スーホの白い馬とか,一つ屋根の下とか知らないかもね.ggrks.



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