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2013年10月3日木曜日

還る場所が欲しい

※この記事は吉田寮ほぼ1000年祭パンフ用に書いたものです.パンフ読んだ方は重複になりますのでごめんなさい.


漆原友紀の「水域」(上下巻・講談社)という漫画がある.先日これを読んで,不覚にも泣いてしまった.涙腺は弱い方なのであるが,漫画で泣くのはかなり久しぶりだった.しかし,他の人に読んでもらって感想を聞いても,いい話だけど泣くほどのことではないといった評価.ちょうど祖父が他界した直後という状況もあって,感情が高ぶっていたのかもしれない.でも私は下巻など感情を抑える為に1ページずつ深呼吸しながら読んだのであった.電車の中だったから.話のあらすじを簡単に書くと,山奥の村の夢を何故か頻繁に見る少女,実はその村はダムの底に沈んだ母,祖父,祖母の生まれ故郷の村だったという話なのだが,実際私はこういう自分のルーツを探るような話に弱い.それには私の中のとあるコンプレックスが関係している―自分には「ルーツ」が無い!?

 無いというのは言い過ぎた.私には父がいて母がいて,祖父がいて祖母がいて,曾祖父がいて….確かにルーツはある.が,ここで私がイメージしているルーツとは土,土地のことである.私の両親はサラリーマン,祖父母もサラリーマンや自営業の家庭であって,いわゆる先祖代々の土地,家,村といったものが無いのだ.小さいころは,(田舎にある)おじいさんの家に遊びに行くという友達が羨ましくてしょうがなかった.自分が行く親戚の家には,田んぼも,きれいな川も,赤とんぼもいないのであった.しかもそこは彼らがどこからか越してきた土地であって,家は建売住宅.彼らはそこではよそ者であった.祖父母にも親がいて祖父母がいて,そこにはルーツの土地があるのかもしれないが,私はそれを知らない.そして私は自分を何か根無し草のように感じるのだ.

  どうして自分はそんなにルーツの土地にこだわりを持つのか,なぜならそこは,「自分が無条件で帰れる場所」だからだと思う.「水域」にも,ダム反対闘争が盛り上がり,一度は村を出た人が戻ってくるという描写がある.ルーツの土地は,いつか還れる,いつでも戻れば自分をやさしく包み込んでくれる,そんな場所なのだ.「母なる土地」と言う言葉もある.ルーツの土地とは自分の先祖各々に対するそれぞれの母の愛が集積した場所なのかもしれない(非化学的ネ).結局私は愛に飢えているだけなのか.この思いは歳を重ねるごとに強くなるのである.  まあ嘆いていてもルーツの場所は無いものは無いのだ.ならばどうするか.私はせめて子孫にルーツの土地を残したい.そう,どんな土地だって最初の人間がいて,次の人間がいて….そして時を経て,人のルーツの土地になるのである.私の今いるところの研究者の道は,「ルーツづくり」を考えればもっとも不利な,遠回りの道であるのは悩ましいところであるのだが(人生の目標を一つに定められればどんなに素晴らしいか.現実にはあれもしたいこれもしたいでどうにもならない.),その中で鶏を飼ったり,山羊を飼ったり,土,農にこだわったことをしているのは,自分のルーツを作りたいという願いがさせているんじゃないかなと私は思うのである.



2013年2月22日金曜日

社会の多様性


井上様
コメントありがとうございます.

本物の農家の方にコメントいただいて光栄です.


農山漁村ではどんどん人口が流出して,廃村も増えています.このままでは,日本と言う国は都会しか無い国になってしまうのかと危惧しています.私は,日本の農山魚村に人がいて暮らしているという事実,これは実は我々都会人にとっても大きな財産であると考えます.山に人が暮らして管理いるからこそ,災害は抑えられているわけです.また私は,「社会の多様性=豊かさ」 と考えていますので,その意味でも日本に「多様な」暮らし方があるというのは,社会全体にとってのかけがえのない財産ではないでしょうか.しかし中には都会のお金が田舎に使われるのが我慢ならない!と言った人がいて悲しくなります.あなたが今食べている肉は野菜はどこから来たのか,透かしは考えたらどうなのでしょうか?

ですから,私はもっと都会から農村へお金を還流させるべきだと思います.それは決して施しでは無くて,農村を守ることは都会の,日本社会の豊かさを守るための必要コストだからで,電気代や水道代とまったく同じ性質の「公共料金」です.田舎があるから都会が存在できる,都会があるから田舎がある.両者は共依存の関係であって,決して片方を切り離せないのです.

今までも田舎にお金は使われてきましたが,何故か田舎を都会化する,社会の多様性をなくす方向に主に使われているのが残念なところです.

貧しいことに価値を置く.清貧と言う言葉もありますし,価値観としては素晴らしいと思うのですが,貧しい田舎v.s.豊かな都会という構図が固定化してしまうと,今の途上国と先進国のような従属関係が出来てしまい危険ではないでしょうか?貧しいけど豊かという価値観を選んだ本人はよいですが,子や孫の世代のことを考えると,住む場所による経済的格差の固定化は良くないと思います.明治時代の女工哀史のような悲劇は,もう繰り返してはいけません.

理想は,人がその価値観に応じて,自由に都会に暮らすか,田舎で暮らすかを選択できる社会だと思います.それこそが,「社会の多様性=豊かさ」の実現です.

はたしてこれは,実現しない共産主義的なユートピアでしょうか?


※この記事は2月15日の記事「狩猟と自然と」へのコメントに対する返信として書きましたが,本記事としてアップしました.


2013年2月15日金曜日

狩猟と自然と

2月14日,NHKクローズアップ現代「ハンターが絶滅する?」にコメンテーターとして吉田寮OBである千松さんが出演していました.寮では急遽テレビを設置して15人くらいが視聴したそうです.その感想.

結局問題は,番組でも指摘されていたが,「狩猟は儲からない」という事だと思う.それでも今までは,猟友会と言う「趣味の人たち」が努力してきたおかげで,何とかなってきた.まずは今までが,親切な人たちの献身的な努力によって奇跡的に成り立っていたのだということを認識しなければならないだろう.国や自治体は,狩猟を儲かる産業へと変える努力をしてほしい.そのためには,

1,有害鳥獣駆除に関して適正な成功報酬(または出動手当)の基準を作ること

2,野生動物を食肉として流通させるための法整備

が必要であると思う.

1については収入の安定の観点からして,登録したハンターに対して月額で支給する制度を導入すべきである.で,金額は食肉の販売と合わせて十分に生活していけるだけの額とすべきである.

2について,日本では動物の食肉処理に関しては「屠畜場法」があるが,それが対象としているのは「牛,豚,ウマ,ヒツジ,ヤギ」だけである.そしてそれ以外の動物は「屠畜場」に持ち込むことが禁止しされている.だから例えばイノシシについては,食肉として売るにあたって特に法律の制限はないのである(市町村で別に条例を定めている例はある).これは一見自由でいいようにも思えるが,野獣肉を使用する飲食店側からすれば「安全である」というお墨付きが無いわけで,これでは食中毒のリスクを考えれば野獣肉の利用が広がらないのも当然である.そこで,山間部の小規模な事業体でも許可を取ることができるような,認定野生動物屠殺場制度みたいなのを創設すべきだ.ここで間違っても既存の屠殺場で野獣を解体させるような制度にしてはいけない.なぜなら屠畜場は大抵都市近郊にあるので,山間部kらの輸送コストだけで野獣肉が割高になってしまうし,そもそも山間部でのせっかくの雇用機会を奪ってしまうからだ.



閑話休題

 これは番組内で千松さんも言っていたことだが,「自然は管理(メンテナンス)しなければならない」ということを我々は改めて認識しなければならない.はっきり言って少なくとも本州には「原始の大自然」なんてものはほぼ存在しない.今ある自然は,我々の祖先が,それこそ縄文時代から脈々と作り変えてきたものである.そして我々の社会はその改変された自然の上に成り立っているのであるから,それを守るためには改変された自然をメンテナンスし続けていかなければならない.

 現在日本各地で農作物が野生動物に荒らされる被害が急増していて,そのために農地全体を電気柵で囲むといったことが成されている.こうなるとつい「ああ人間が自然を改変しすぎたせいで生態系のバランスが崩れてしまったのだ--」などと考えてしまうが,そうではない.むしろこれは日本の本来的な姿であるのだ.江戸時代の前ごろまでは,特に山間部では日本の農地は野獣の被害を避けるため柵で囲われている所が多かったのである.日本各地に「垣内」という地名が見られるが,これはその名の通り柵に囲われた内側と言う意味である.その後狩猟の進歩や周囲の開拓によって野獣の数が減り(この裏には先祖代々の血もにじむような努力があったことを心得よ!),柵が無くても作物を作れるようになった.つまり野獣被害の無い農村というのは,人間の自然改変の結果なのである.
 だが,一度作ったトンネルもメンテナンスしないと崩落してしまうように,改変した自然もメンテナンスが必要である.安倍首相は国土強靭化などと言うスローガンで,200兆円を投じて既存インフラのメンテナンスをするようだが,その予算の一部でも,改変した自然のメンテナンスに回してくれればと思う.緑の里山,谷間の農地.それこそが,保守の守るべき「美しい日本」ではないのでしょうか?

2013年1月11日金曜日

草刈る人々

 ヤギの繋牧のせいで,吉田寮の周りは着実に砂漠化が進行しています.ヤギのエサの確保も一苦労.たったヤギ2頭なのに.

  さて,家畜が農耕の主役として一般的に飼われていた時代,エサの確保はどうしていたのでしょうか?一説によると,牛や馬を使って米を作るには,餌用として水田の5-10倍の面積の草場が必要であったと言います(1).しかし,現在日本の農山村を見渡しても,なかなか草原というものは見かけません.村の周りには,田畑の他は山しか無い場合がほとんどです.ではどこから草を得ていたのでしょうか?

 実は,日本の里山と呼ばれる山の多くは戦後植林されたもので,昔は草原の山だったのです.そしてそこに生えている草を刈ってきて家畜の飼料としていました.現在,日本の草地面積は国土の1%未満ですが,例えば江戸時代,河内国では山の半分が草原で覆われていたと言われています(2).日本では,放っておくと草原は森林になってしまうので,草の山では山焼きを行って草原植生を維持していました.草刈山は所謂村共有の入会地とされていましたが,入会地が少なかったり,村から遠かったりする集落では特に草刈は苦労するものだったようです.

 吉畜協でも,ヤギ小屋の敷材用に草刈りに出かけたのですが,なかなかいい場所が無く結構遠くまで刈に行きました.二人で1時間強作業して,1坪半のヤギ小屋に敷き詰められるぐらいのススキが刈り取れましたが,これを毎日のように繰り返していたと思うと,先人たちの苦労が偲ばれます.何せ,私たちは草刈り場から車で草を運びましたが,昔の人は背負って運んだのですから.


参考文献:
(1)宮本常一, 2007,日本人の住まい,農山漁村文化協会
(2)小椋純一, 2006, 日本の草地面積の変遷, 京都精華大学紀要第三十号

2013年1月3日木曜日

定住と非定住と


 年始,大阪でのホームレスの人のための越冬闘争に参加した.そこで支援者の方の一人が話していたことが非常に考えさせられるものであった.「日本には,定住していることが普通であり善であって,ホームレスなどの非定住者は異常であり悪であるという暗黙の了解が存在している.野宿者の支援というと,野宿者が定住者へ戻ることの支援を意味していることが多いが,そうではなく堂々と野宿者であると言える社会.非定住という選択肢が許される社会をつくるような運動をしていかなければならない.」
 
現在,非定住という選択肢が無い日本社会ではあるが,過去には非定住の人々が存在していた.所謂サンカと呼ばれる人々や,木地屋,マタギなどの人々である.木地屋いうのは,山中の木を切って椀等を作る人々で,江戸時代までは山の7合目以上は木地屋の領域とされ,自由に木を伐採することが許されていたという.もう奥には村が無いような山奥の沢で,上流から椀が流れてきたという話は日本各地に存在している(遠野物語のマヨイガの話も確か椀が流れてくる記述があったような(自信無し)).東北のマタギは,一応村に定住しているものの,山中の道を獣を追って中部地方や近畿地方まで足を延ばしていたというから,一年の大半は野宿をしていたと考えられ,定住者というよりは半定住者と言えよう.紀伊山地の北山地方では,戦前まで,サンカの人々が河原に小屋掛けして川魚漁をしている姿が村人に目撃されている.

 結局彼らも,明治維新後の社会の変化によって,非定住者から定住者へと変わっていったのだが,不勉強な私にはなぜそうなったのか答えを得ることは難しい.「中央政府からの圧力」なのかそれとも,「非定住者が定住することが許されるようになった」からなのか?そもそも非定住者は「定住が許されない者」だったのか単なる「定住しない者」だったのか?

 さて,野宿者の問題に立ち返ってみると,彼らは経済的な理由から「定住が許されない者」であると思われているが,内実はそうも単純ではなく,かなりの数の「定住できるだけの経済的余裕がありながらあえて非定住を選択している人」が存在しているという.そうなると,ビッグイシューのような「経済的自立をさせて社会復帰!」みたいな野宿者支援というのは,かなり的外れなものだと言える.彼らは可哀そうな困窮者ではなく,非定住という幸福を追求する権利を求めるマイノリティーなのだ.彼らに定住支援をすることは,同性愛者に対して異性愛に戻る支援をすることとまったく同一にナンセンスなものであると言えるだろう.

全然畜産と関係ないことを書いてしまったので,最後に少し考えたことを.
公園に家畜小屋つくって,普段は地域の人々の癒しの場としてそれを提供し,野宿者に辛い冬が来たらそれの一部を食料として供給するような,そんなシステムを作れないだろうか?一石二鳥だと思うのだがどうでしょうね,橋下さん!

2012年11月12日月曜日

フィールドワークと自然畜産

 私の本業(!)は, フィールドワーク系の研究者(の卵←死籠かも)である.そんな私が大学院に入ってフィールドワークの門を叩いた時,先生から言われた言葉がある.

「フィールドワークにおいては,現場に問題を持ち込んではいけない.現場から問題を持ち帰らなければならない.そのために,とにかく現場に通え,そして観察しろ.そうすればおのずと問題は発見される.」

 これは今でも私の研究哲学である.だが昨今,論文数をただ競うばかりの成果主義の大学においては,これを実践するのは非常に難しい.曰く「時間の無駄」.だが,予め問題を設定して,先入観を持って現場に行って,果たして真理の探究において不都合は生じないのか?学者の仕事は,金を稼ぐことでも,論文を書くことでもなく,真理を探究することのはずだったではないのか?お前らは研究者であっても学者とは呼べんわっ!!

と,大学への愚痴はここまでにして(キリが無いからね),翻って畜産について考えてみると,実は前記の哲学が見事に適用できると,私は常々考えている.
畜産はフィールドワークと一緒.予め問題を設定しては,良い結果は生まれないのではないか.例えば,生産目標とか,品質基準とか,効率とかを予め設定してしまえば,結局は工業式養鶏であったり遺伝子組み換え飼料であったり,抗生物質の大量投与であったりにしか行き着くことはできない.何故なら,畜産における問題には,単に家畜の生理的な事だけではなく,天候であったり,季節であったり,性格であったりといったことが関係してくるからだ.
 だが自然畜産は違う.そこにはまず家畜が居り,我々のすべきことは徹底した観察である.ヤギとは,ニワトリとは,何を食べ,どのように寝,成長していくのか?何を求めているのか?その時の季節はいつか?天候はどうか?そしてそれらを観察し,その中から問題を発見し,試行錯誤によって解決を図るのである.

自然畜産については,一昔と比べてずいぶん理解が広がってきていると思う.それがフィールドワーク,研究の世界にも拡がる日が来るだろうか?
そして私は,今日もただ家畜を眺めている.

2012年11月1日木曜日

そこに愛はあんのかい?

ブログの更新が少ないとの指摘を受けたので,今日から頑張ってたくさん更新する.いつまで続くかわからないけど.


昨日は深夜に雨の音で起きて,ヤギを外に繋ぎっぱなしだったので回収して小屋に入れに行った.

家畜を飼い始めてから雨の音に敏感になって,必ず起きてしまう.大事なヤギを風邪で死なすわけにはいかないから.やっぱし愛情を持って育てないと,おいしい肉はできないし(と信じることにしている),そもそも家畜を「殺して」肉にするという行為自体,それを愛情(=責任)を持って育てたものであるからこそ意義があると思う.ただ殺すだけなら,どこかで貰ってきた動物を殺せばいいのであって,わざわざ飼育する意味などないわけである.また,愛情をもって育てたということは,家畜を資源として無駄にしないということに繋がる.スーホが馬頭琴を作ったように,愛情を持って育てた家畜ならば,それこそ骨の髄まで,利用してやろうという気になる.そしてそれこそが,本当の動物愛護につながるのだ.だって,そんな動物を残虐な方法で殺したり,必要もないのに殺したりしないでしょう.「イルカかわいそう」「ニワトリかわいそう」より「動物を育てて食べよう」って主張するべきですよ,愛護団体の方々は.

「動物の命を奪う」という行為は,自分の命を大切に思うすべての人にとって(なんか「死にたい」とか口癖のように言っている学生がいるが,大体そんなことを他人に言うこと自体,自分の命に執着している証拠である),特別な行為であり,非常に責任の重い行為である.からして,本来的には自分が食べる肉は,自らが殺して得るべきである(これが理想).もちろん,これは非現実的なことであるから,我々はお金を払って,これを他人に代行させているのだ.だがしかし,多くの人が,肉を喰らいながら一生屠畜をせずに(さらには見もせずに!そんなことが行われていることに気づきもせずに!!!)いるのである.これは非常に不自然ではありませんか.「肉を喰らって生きること」の責任から逃亡しているのですよ.

自分が吉畜協を始めたのは,そんな机上の理論を自分の実体験し,また寮生(+周辺の人)と共有したいからであるのだけれど,残念ながらまだまだ.「動物を殺して食べること」が単なるエンターテイメントとしてしか捉えられていない節がある.そもそも屠畜という行為はいわゆる特別なこと(モンゴルや中東で家畜をつぶす日は,客人をもてなしたり神に祈ったりするための特別な行為であることを想像してもらいたい)であるから,屠畜がエンターテイメント性を持つのは当然のことであるのだが,屠畜する動物が愛情を持って育てたものであれば,そこに「感謝」が生まれる.これが重要で,「感謝(それが動物に対してにしろ神に対してにしろ)」が無くてエンターテイメントだけなら,風呂場で猫を猟奇的に解体する人と同じだよ.「いつウサギを殺すのか?」「ニワトリ喰おうよ」とか言ってくる人がいるけど,おいおい「そこに愛はあるのかい?(これ「一つ屋根の下」というドラマで,江口洋介が言ってた決め台詞ね)」.


まとめ
1,自分の喰う動物の命は,できる範囲で,責任を持って自分で奪おうよ.
2,自分が食べる動物に愛を持とう.そうすれば自動的に感謝が生まれ,しいては動物愛護,持続  可能社会の実現につながるよ.



ただ日記を書こうと思ったら,アジテーションになってしまった.
でも今の学部生とか,スーホの白い馬とか,一つ屋根の下とか知らないかもね.ggrks.



2012年7月12日木曜日

吉田寮の循環型畜産業 -低コスト生産に向けて-

吉田寮における家畜家禽類の食物連鎖循環


現在吉田寮では上図のような循環系が成立しています.

このサイクルは,系外から穀物と濃厚飼料を与えることだけで回転していることがわかります.
つまり,どうにかして穀物と濃厚飼料を与えることを中止できれば,ノーコストの畜産が成立することになります.

うさぎは,ジャンボウサギ化を諦めて放し飼いにすれば,濃厚飼料を与える必要はなさそうです.
ニワトリは,現在徐々に穀物の給餌を抑えていて,現在は1日米と米ぬかの混合物を一日2合(ニワトリ30羽に対し)ほどしか与えていません.
また,飼料に無料で貰える米糠やオカラを使用すれば,コスト削減が可能です.


しかし,上の図において,冬季は草木及び虫の生産量が激減する為,サイクルが維持できないことが予想されます.つまり,どうしても冬期間は,穀物及び濃厚飼料の投与をしなければなりません.



よって当組合は究極的には,

・夏季は外からの給餌を完全に中止
・冬季はオカラや米糠を中心としたローコストの飼料を給餌

することで,生産物の低価格化を実現したいと考えています.


また,循環サイクルを維持できる家畜家禽類の冬季の飼育数ですが,ヤギについては2頭,ニワトリについては30羽程度でないかと考えます.うさぎについてはまだ越冬していないのでわかりません.


2012年7月11日水曜日

新規事業計画

うさぎ事業も軌道に乗り始めたので,新規事業を考え中.

家禽類で飼育できそうなのは,

  • あひる
大阪の方で一羽600円程度で入手可能.飼育も簡単.
  • ガチョウ
どこで売っているのか分からない.フォアグラ食べたいけど.
  • アイガモ
これも大阪の方で600円程度で入手可能.秋にアイガモ農法の農家に行けばタダで貰えるかもね.
  • 七面鳥
ピヨピヨカンパニー(http://www.piyokan.com/)で一羽1500円で販売.でもすぐには手に入らないみたい.

  • ホロホロ鳥
こちらも,ピヨピヨカンパニー(http://www.piyokan.com/)で一羽1500円で販売.でもすぐには手に入らないみたい.

  • ダチョウ
飼えたらすごいけど….


哺乳類は手間がかかるから難しいかな….羊ならいけるかな?と思ったけど,これ http://okwave.jp/qa/q7101914.html を見たら無理そうでした.


あとは,養蜂とかはいいかも.